端渓採掘坑の??? / 沙浦坑区、沙浦原石、半辺山坑???
端渓~13 主な端渓の産出坑~ 商品-硯トップへ みなせトップへ

「半辺山」??? 「半辺山坑」???
端渓硯産出地&産出坑 「半辺山」 「半辺山坑」 とは???  
半辺山諸坑の原石による硯が近・現代代の端渓市場に現れた時期???
予てより「産出坑の特定に至らない」、或いは「産出坑の判断がつかない」端渓硯を説明するのに用いられた
便利な採掘坑名 「半辺山」 「半辺山坑」。
半辺山の実際を求め長年肇慶を訪れては現地関係者の話を聞き回り、そして様々な資料を集めましたが、なかなかに半辺山解明への道筋は見つからず、現地の端渓関係者の多くが説明する「半辺山坑」とは「どこかその辺りにある坑」を超える結論には達し得ませんでした。
が、やっと2010年に新たな資料を調べる機会を得ました。新たに出版された研究書、端渓新資料集。
古資料を網羅した端渓史の集大成と言える「寶硯風華録」、これを肇慶採掘関係者から預かることが出来たのです。
この資料を探り推論し古来の採掘図を併せ調べを進めていく中で「半辺山/半辺山坑群」は現在も活動している「沙浦採掘坑区」と同一の場所を指す。と推測出来る資料に出会いました。   以下にご案内します。
肇慶に残る古資料、端渓産出坑に関する古資料を集め1998年に出版された後も一部の関係者の間でのみ知られていた端渓資料の集大成「寶硯風華録」。この端渓資料集「寶硯風華録」に以下が記されています。
  坑名: 半辺山諸岩
場所: 爛柯山一帯に散在する端渓産出諸坑の東側、燗柯山中腹にあり大秋風、小秋風、獣頭獅子、黄坑、桃花河頭新坑から成る。
開坑: 宋代以前
構成: 坑仔岩類に属する
歴史における登場:
宋米芾《端州岩石》 
半辺岩は山の中腹に在り。・・・略・・・
宋《端渓硯石譜》
爛柯山下、少し東側にあり、大秋風、小秋風、獣頭獅子、桃花河頭、新坑、黄坑等、著名である。・・・略・・・。
宋叶越《硯譜》
山道より少し東、半辺山諸岩に至る、山の麓也。
 ↓ 山口琮一(山口そう一)私見に肇慶端渓複数硯廠責任者 談、端渓に関わる古老達の談を含む

山口さんは何度も来肇し「半辺山坑」について調べていた。
少しでも半辺山に係る資料が無いか、それを知るものはいないか・・・を探し回っていた。
2011年4月の来肇時には以前にも増す勢いで半辺山坑について尋ね廻っていた。資料をさがしていた。

私は他の肇慶端渓関係者と同様に「半辺山坑」は
「採掘坑が特定出来ない硯石に便宜上与える坑名で、端渓鑑定者にとってはとても都合のよい坑名」と教えられ、そう捉え、そう説明してきた。
しかし山口さんの長年にわたる半辺山調査に触発され、端渓に連なる仕事に従事する責任者の一人として半辺山坑について調べたいと思うようになり半辺山坑に関する古記録を捜す事にした。
1年かかったが見つけた。ヤット「半辺山坑」について信頼に足る古資料を見つけた。

多くの古記録を探し回って見つけ出したこの資料でも半辺山坑がいつまで開採されていたのか等々を掴む事は出来なかった。が、過去に「半辺山坑」が在った事は判った。

資料には≪燗柯山(現在の現地名“斧柯山”)、茶園山、将軍山は同じ渓に在り坑名「茶園坑」は燗柯山硯坑や将軍坑より高いところにある。≫などと半辺山坑群の状態を説明している。

この古資料を読む限りこれら坑群全体を指して半辺山と称すると解釈すべき記述の流れであり、半辺山を「半辺山」と言うひとつの山と解するには無理がある。
古資料を熟読し熟考した結果、現在の燗柯山東方地域の中腹に“半辺山諸岩(坑)”と呼ばれる採掘坑群(⇒“岩洞=坑群)があり、坑群は大秋風、小秋風、獣頭獅子、黄坑、桃花河頭、新坑から成っている”と捉えるのが一番正解であると言い得る。

山口さんや我々端渓の現業者が探し求める資料は端渓硯の価値の流れと歴史的な実態であり、古記録から端渓の坑名や採掘された山などの在り所、名前等の事実を系統だって調査し記録を残す。その検証者の一部が記し残した大秋風・・・・などの坑群名、そして在所に関係する記述から半辺山の存在を、そしてその場所を確定することが出来た。
これらを更に詳細に記した資料は我々実務者の管轄とは別にこれら検証者ルートにあるのかもしれない。
しかし端渓に従事する私を含め、今回資料を調べた端渓硯廠関係者の中には資料に記された大秋風、小秋風・・・・の名を知るものは誰一人としてなく、資料に認められた文意から半辺山に在る洞=坑の名前と理解するのが唯一の理解であり正しいものと考えられる。そしてそれ以外には解釈のしようがない。


半辺山の名は端渓硯の採掘坑として古記録に残り、それに記された坑数も多く盛んに採掘されていた様子が窺える。
肇慶硯廠の責任者がやっと見つけた古資料は「半辺山は燗柯山=斧柯山の東方」に位置する、と理解すべき記述を残している。
この記述に現地状況・地形を合わせ考えた時、半辺山は古記録の記述通り燗柯山の東サイド、現在の沙浦新坑区と重なる場所であると、肇慶に居住する者でない私でさえその地域は直ぐに思い浮かべる事が出来る。
それにも拘わらず現実の採掘坑としては長らく忘れられ、現地の端渓関係者の誰もが「具体的な端渓採掘の場所を示す坑名ではなく由来の説明がつかない端渓硯の産出坑として便宜的に与える便利な坑名」であると捉えていた。

古記録は半辺山坑の位置を「燗柯山=斧柯山の東方」に位置する、と理解するのが妥当な記録を残していることは前述の通りである。

正にこの地「燗柯山=斧柯山の東方」に位置するのは沙浦新坑区、或いは沙浦採掘坑区と呼ばれる地域であり、この沙浦地域には老坑もどき、坑仔巌坑もどき、麻子坑もどき、・・・、の見た目は老坑、坑仔巌坑、麻子坑とソックリと言える石紋を伴った、しかし硯としての本質は著しく劣る「有洞巌」、更には北嶺の梅花坑や緑端(緑石端渓)などとよく似た(新)梅花坑、(新)緑端、やはり北嶺の宋坑と勘違いされる機会が多い宋坑もどきの紫端渓や二格青の坑があり「沙浦硯坑区」として活動している。

北嶺採掘地の住宅地などへの開発により沙浦硯坑区への移転を余儀なくされた北嶺各硯坑。
北嶺各坑とは事情が異なるが、南嶺の老坑、坑仔巌坑、麻子坑、結白巌、白綫岩、・・・、等々の有名坑。
南嶺の有名坑は21世紀初頭、地下資源の保護を名目に全て強制閉鎖され採掘が禁止されたのは多くがご承知の通りである。
これら有名坑硯石原石の充分な在庫を持たない硯廠は、この強制閉鎖により各有名坑もどきの石紋を持つ硯石の採掘坑「有洞巌」原石を、北嶺の宋坑原石を持たない、或いは北嶺宋坑原石の在庫を抱える硯廠からの供給が充分ではない硯廠はやはり沙浦地区二格青等の坑から採掘された硯石を流用するようになった。
この流れにより沙浦硯坑区の活況は1990年前後から関係者のみならず広く知られる事になる。
沙浦から採掘される宋坑に似た硯石の「二格青」「紫端渓」は比較的有名だがこれらの採掘を(現在として再開)した1980年前後の広東省工芸品分公司(=当時、端渓にかかる採掘から契約・輸出に至る全権を握っていた=)の説明は「この二坑硯石は端渓ではなくその周辺地域の産出である」と説明され「端渓渓谷から産出する端渓各坑」とは確実に区別されていた。
2010年ころからこの二坑硯石を「(新)宋坑」と、更には堂々と「宋坑」と称すなど沙浦坑区で有名坑もどきの多くの硯石が採掘されている現況は古資料に記される半辺山坑群の活況を彷彿とさせるものである。

採掘される硯石の種類、地勢等々から「沙浦坑区」は一部関係者の間で言われる「近代新たに開採された端渓坑群の新開発地」ではなく、
曾て半辺山坑群として活況を呈した時代があった。
それにも拘わらず硯としての基本石質の問題から徐々に放棄され長らく見向きもされなくなり事実上忘れられた採掘地、半辺山坑群の跡地であると推測できる。
長い時間の流れの中、採掘坑「半辺山(坑)」の採掘実態を知るものは途絶えたが「半辺山(坑)」の名はうっすらと関係者の記憶に残り、時の経過と共に「採掘坑を特定出来ない硯石に便宜上与える坑名“半辺山(坑)”」として端渓鑑定者に利用され「とても便利な坑名」として現在まで生き残ってきた。
半辺山坑は歴史上の採掘坑としての記憶が関係者の間には残らず「坑名」のみがかすかに記憶され利用されてきたが、21世紀を跨ぐ時代に巻き起こった「人民の財産である地下資源(端渓原石)の保護」の大号令による「宋坑」を代表とする北嶺、そして「老坑」「坑仔巌坑」等々の南嶺、これら全ての採掘が厳しく制限され、更には全坑全面採掘禁止に至ったことにより「沙浦」坑区が見直され採掘を再開、再び盛んになった。
沙浦硯坑区の硯石採掘は隆盛を見るようになったが、現地に「半辺山、半辺山坑群」と「沙浦採掘区」を結びつけ考える者がいなかった。と言う事であろうと推測します。

1980年代から肇慶で調べた現地現情報では≪半辺山≫は捉えられなかったが、
この間に肇慶古老や老坑硯廠等から提供された古資料や現地で探し求めた古資料、そして現地に伝わる伝承等々の検証を続けてきたがヤット前述の事、半辺山の実体が浮かび上がってきた。
現在の現地情報からでは捉えられなかった半辺山は古資料に現地の地形・現況等を加えることで知ることができた。
古資料の記録・記述から≪半辺山坑群≫と≪沙浦硯坑区≫は、採掘の時代は違っても同様の採掘坑区群を持ち、更に地理的に同位置と言える地域であると推測出来る。以上を私見としてご報告いたします。
山口琮一 .

沙浦坑区採掘原石による硯が日本人バイヤーの前に現れたのは広州交易会の最盛期とも言える、そして広州交易会以外での契約がまずはできなかった時代、1980年代も後半だったと記憶しています。
その時代に交易会会場の広東省工芸品公司のブースに「二格青」が出展され、
「この石は端渓宋坑と見た目はそっくりだが磨墨性が劣る。
採掘場所も端渓からは少し外れるが端渓の近隣にあり、その場所からは端渓に似た石が色々と採れ価格も端渓と比べたらかなり安い、と紹介されたのが二格青であり、沙浦坑区原石による硯の市場登場の近・現代での最初です。
本来の宋坑原石の採掘が2005年暮れころから2006年初頭ころに禁止され、その原石在庫を持つ硯廠以外はこれら沙浦坑区の原石をその本来の坑名ではなく「新宋坑」として、一部は「宋坑」として流通させています。
宋坑以外の有名各坑硯も採掘禁止令までに採掘した原石在庫の使用が進むに連れ沙浦坑区の原石を以て「新麻子坑」「新坑仔巖坑」「新老坑」・・・、等を市場に出しています。その一部は「新」を付けず本来の坑名のままで出荷しています。
 
麻子坑と半辺山坑の位置関係:
本来の老坑、坑仔巌坑は燗柯山=斧柯山北サイド中央部の西寄りにあり、麻子坑は燗柯山=斧柯山の南方に位置する坑です。
肇慶端渓硯廠責任者に麻子坑周辺、およびその対面全てに端渓採掘坑跡の形跡が残るかどうかの調査を依頼したところ、麻子坑対面の山も含め麻子坑周辺には麻子坑以外に硯坑とおぼしき跡地を見つける事が出来ない、との調査結果を連絡してくれました。
現地で現在知り得る全てを総合的に判断する時、古い時代に半辺山が開採されていたことは事実だと考えるが麻子坑周辺にはその形跡を見つける事が出来ない、との返事でした。
かつての掲載は、現地でも一般的だった半辺山の解釈を、以下の解釈を掲載していました。
以下を、かつての半辺山理解の参考資料として。また、私山口琮一(山口そう一)の半辺山旧記述として残します。
以下、旧記述は新資料が見つかるまでの現地情報等々によるものです。
以下旧記述は取り消し前述の半辺山にかかる記述に訂正します。2012年4月26日  山口琮一
私が硯に興味を持ち、端渓を中心とした高名な硯の勉強を始めた1960年代半ばでは、
日本でも「半辺山坑」とは
「端渓であることに間違いはないが産出坑を特定できない硯に便宜上与える坑名」で 「端渓産出坑の判断に困った時の便利な抜け道」の意味である、との指導を受け、そしてそのように用いられていました。

これらについて「私の思い込み」であってはいけませんので、念には念を入れ肇慶の硯の専門家(複数)に、「半辺山」「半辺山坑」についてその所在地などの詳細を調べて欲しいとの依頼を出しました。
肇慶から即答に近いかたちでで返ってきた返事は

「半辺山」・・・・・その辺りのどこかの山のこと。具体的に “半辺山”は“この山”だと場所を規定する表現ではない。

「半辺山坑」・・・・どこかの山のどこかに在る坑、でした。

と言うことで
「端渓硯原石の有名採掘坑がある山」と言う意味の如き表現をされることもある「半辺山」とは
端渓硯の産地、中国広州「肇慶(旧 端州)」では
特定の山や地域を指すのではなく、一般的な「いずれかの山、その辺りの山」を意味し
「端渓硯原石の有名な採掘坑のひとつ」と言う意味の如き表現をされることもある
「半辺山坑」とは「どこかの山にある坑、どこかその辺りの山に有る坑」を意味します。
 
端渓硯産出坑のひとつ「半辺山坑」が在る、と言う意味での「半辺山」とは関係なく
中国 貴州 貴陽県と浙江省寧波市に「半辺山」と言う地名があります。無論、天下の銘硯「端渓」とは無縁の地名です。これら以外にも中国には「半辺山」が沢山ある様子ですがいずれも端渓産出坑とは無縁です。
≪端渓の産出坑≫とは無縁の半辺山 貴州 貴陽県 半辺山画像
≪浙江省 象山県 寧波市 半辺山≫へ
≪浙江省 象山県 寧波市 半辺山≫画像
≪日本の半辺山?≫画像

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