10 水巌伝説
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旧坑(下巌石)発見から水巌と呼ばれるまで 老坑図面へ   老坑発見以前から、端州一帯には良質の硯を産出する坑が点在していました。
その採掘職人達の多くが「更に有利な硯坑を求めて、端州内を広く探石していた」という背景があるのです。
彼らは、自らの生活向上のために、より良い硯材を探し当てようと、山から山へ、谷から谷へ、
凡そ、試掘できるところは余さず調べて廻りました。
旧坑(下巌石)発見から水巌と呼ばれるまで
 そして、端渓を流れる小渓流沿いの山裾で、特に良質な硯材に巡り会ったのは、偶然ではなく、彼らの努力の必然の結果であり、悠久の時の流れの中では、彼らの努力に対して、この結果は約束されていたとも言えるのです。

 彼らが発見したこの坑は、斧柯山に在る小さな渓谷「端渓」を流れる名もない小川沿いの山裾にへばりついていました。
 山裾と小川の間の草むらに、小さく露頭した岩の発する不思議な力が坑夫を呼び寄せたのです。(注:この名もない小川が後に小渓谷の名前「端渓」と混同され「端渓」とも呼ばれるようになります。)
 斧柯山中の険しい山裾で発見された石は、その場所の様子から下巌石と呼ばれました。

 その石質のすばらしさに驚きながらも、発見した坑夫達は、露頭した石の石質のすぐれた方へすぐれた方へと 掘り進んでいきました。
 坑は斜め下へと続いていったのです。
 坑を掘り進むに従って、鉱脈の周辺も自然と掘り下げられ、鉱脈を中心にくぼみが出来ていきました。
 そして、僅かな年月の経過で
すぐれた石質を持つ砿層は
これ以上その廻り全体を掘り下げることが出来ない山の中へと続いていったのです。
 ここから先は露天掘りでは採掘が出来ません。
 山の中の鉱脈に沿って、穴を穿ちながら掘り進むのですが、
ここがその後、
 老坑(水巌)と言われる場所の入り口、
 1982年に新入口が開通するまで、断続しながらも使われ続けた旧の坑口なのです。

 この坑口をほんの少し下がる付近まで掘り進まれたとき初めて
西江が増水すると、ここまで水に浸かる場所だと知れたのです。
 西江が最も増水する時期には水に浸かってしまうと判ったのです。
 当初、石が露頭していたところから坑入り口に至る寸前までの露天掘りの跡が窪地となっていく最後の所までを掘っている間は、西江が如何に増水しても、水が掘削現場まで届くことはありませんでした。
 しかし、山の中を掘り進み始めた時、そこは、西江の増水が最高にすすんだとき、水に隠れてしまう高さだと知れたのです。
 更に掘り進むに従って、坑はますます深くなり、西江が少し増水すると掘削現場は水に沈み、
西江の減水を待たないと掘れなくなっていくのです。
 坑が水の中に沈み、石を掘ることが出来ない期間は、坑が深くなるのに正比例して増えていきました。

 西江の水量に呼応して、坑が水に沈んでしまう、
しかも、それが判った今も 坑から採れる石は、
老坑発見当初の露頭部分の石質の素晴らしさと同じく
硯材として最高の、それも、飛び抜けて最高の質を持っている。
 水と闘い、艱難辛苦、水に浸かり命を懸けて
水の底から掘り出さねばこの石は手に入らない、
そうです、 「水巌伝説」が生まれたのです。

 下巌石と呼ばれていた坑が水巌と呼ばれ出したのです。
 水巌伝説が形成されていく内、
「水巌は西江の増水時には水に浸かってしまう」が
「水巌は常に水に沈んでいる、水の底から掘り出している」と伝えられるように変わっていったのです。
 
 しかし、前述通り、西江が増水する時期、水を掻い出しながら
水の中から石を掘り出す様なことは
現実には不可能であり、実際になされたことはないのです。
渇水期、西江の水が引き坑の内部には溜まり水が残る、その溜まり水をかい出して採掘したのです。

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