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「有馬筆(⇒実用の書画筆)」の長い歴史の中で「みなせ」の祖先が毛筆作りに関わったのは何時ころなのか?
「有馬筆」と「有馬の人形筆(⇒有馬温泉の名高い土産品)」の関係について兵庫県文化協会(現 兵庫県芸術文化協会)調査記録に
「室町後期永禄2年(1559年)、川上の下男伊助という人が有間皇子の出生にちなんで作り始め、みやげ物として好評をえたと伝えられている。これは書画用の毛筆に細工をほどこしたものであり、書画用の毛筆はその前から製作されていた、と推測される」の報告があります。
有馬のみなせ菩提寺過去帳には「中寺屋常吉 1597年没」の記録が残っています。
有馬で起こった数度にわたる大火で菩提寺の過去帳も多くが消滅、残った過去帳から「ご住職 田中大泉師」が1970年代前半頃記帳して下さったものです。中寺屋常吉以前は過去帳焼失のため不明です。
この過去帳が記録に残る「みなせ(“中寺屋” ⇒ “山口” ⇒ 屋号としての“みなせ”)」の始まりですので中寺屋常吉をみなせ祖先と捉えています。
中寺屋常吉の没年は1597年ですのでその活動期は「室町時代後期から安土桃山時代初期」※注1であったと考えられます。また生業として社寺用の実用筆を作っていたことは種々の記録の断片、口伝などから十二分に推定できます。
以上により「みなせ筆」の創生は有馬筆の創生と時を合わすか、それに近い時期ではないかと考えられます。
※注1≪ 室町時代(1334〜1573年) 安土桃山時代(1573〜1603年) ≫
前述と離れ「有馬人形筆」の起源を「有間子=ありまのみこ=の名にちなんで7世紀とする説」もありますがこの7世紀起源説は確認されていません。                           “ 有馬筆と有馬人形筆について

兵庫県委託調査 財団法人 兵庫県文化協会(1980年3月刊行) 『伝統的手づくり工芸品振興調査有馬毛筆(書画用)』 にも記述されていますとおり有馬の古記録は再々の大火でほぼ消滅、僅かに残った菩提寺の ※記録※ では慶長2年(1597年)にみなせの祖先「中寺屋常吉」が没しています。
この記録から中寺屋常吉の活動は没年以前の文禄年間(1592〜1596年)であったのは確実で、没年齢によりましては更に時代をさかのぼり天正(1573〜1592年)、元亀(1570〜1573年)、永禄(1558〜1570年)になると思われます。
兵庫県委託調査 財団法人 兵庫県文化協会(1980年3月刊行)『伝統的手づくり工芸品振興調査有馬毛筆(書画用)』には
《人形毛筆については、室町後期の永禄2年(1559年)に川上の下男の伊助という人が有間皇子の出生にちなんで作り始め、みやげ物として好評をえたと伝えられている。これは書画用の毛筆に細工をほどこしたものであり、書画用の毛筆はその前から製作されていたと推測される》 と記述されています。
この時既に、みなせの祖先「中寺屋常吉」は製筆と輸送の仕事を生業にしていたのですから、筆屋としての創業はそれ以前であるのは確実ですが、それが何時からなのかは古記録からも明確には掴めません。
中寺屋の製筆・輸送の生業は、中寺屋常吉 → ・・・ 一部年代は有馬大火が原因で欠落 ・・・ → 長四郎 → 吉兵衛 → 吉兵衛(同名) → 中寺屋久兵衛へと代々引き継がれ明治を迎えます。
明治になり山口姓を名乗った「山口利助」は明治5年(1872年)に没しました。
それ以降も山口久兵衛(同名)、山口林兵衛へと製筆業は引き継がれ、有馬の「山口製」筆は明治三十五年の《 摂津國西成郡鷺集村大字海老江 関西時報社 》の誌面『堺文房用品小売相場欄』にその市場相場が掲
載されています。
  この新聞は、有馬ご在住でお元気な頃はみなせ筆司の一人として筆を作って下さった職人さんが1970年代半ば『襖を張り直していたら下張りにこんなんが出てきたから持ってきた』と持参下さったものです。
毛筆産地の職人としてこれら商品相場を知る必要も有ったともの考えられます。
●保険開進筆 山口製 一本六銭  ●写奏  山口製 一本五銭
●文峰 山口製 一本貳銭       ●戸籍書 山口製 一本壱銭五厘
 
明治の改姓以降昭和20年代に屋号を「みなせ」に変えるまでは「山口製」筆として販路に乗せていました。
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屋号「みなせ」の謂われは明治中〜後期にはじまります。
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若い時から浄瑠璃に凝っていた当時のみなせ主人山口林兵衛(天保9年=1838年=生、大正7年=1918年没 79才)は浄瑠璃の道では全くの素人でありながら言葉通り“病膏肓に入る”で、浄瑠璃太夫の鑑札を得ました。
製造した毛筆の販路拡大を目差し、岡山から京、大阪、更には奈良方面へと、その頃としては広範囲な宣伝活動と共に商いに出向いていましたが、その広告宣伝材料として拡販に赴いた地それぞれで『浄瑠璃』を語り、人を集め、毛筆の宣伝と共に販売もしました。浄瑠璃の鑑札は『豊竹湊瀬みなせ=太夫』でした。
浄瑠璃の人気と筆の佳さとの相乗効果が相俟って、筆を待つ人、浄瑠璃を待つ人たちから『湊瀬=みなせ=太夫』が来た、『みなせ』が来たと親しまれ、各地ともに『みなせ』筆の認識が強まりました。
『みなせ』が通り名になった後も筆屋の屋号としては『山口』筆として通し、
第二次世界大戦中には有馬の毛筆製造所が旧日本軍の指定工場になったことも重なり、活況を呈し、
営業責任者だった山口末義(明治27年=1894年 〜 昭和39年=1964年:私山口j一の叔父、先代山口武美の長兄)は兵庫県有馬郡湯山町(明治29年有馬郡有馬町と改称=現 神戸市北区有馬町=)の町長職についていました。
製筆と共に製品を移送する運送業も再度事業に組み込み、一時期は運送業『中寺屋』を兼業しました。
末義・武美の父、山口亀吉(慶応2年=1867年=生)は製筆の名人と言われ数多くの職人を育て、昭和27年(1952年)84才で生涯を閉じました。
名人山口亀吉が事実上引退した第二次世界大戦の後、占領軍は『道』のつく伝統武芸・伝統文化の教育・普及を禁じました。
『書道』も禁止され、製造も営業も極端に縮小せざるを得なくなり、実際上は休業状態に陥ってしまったのです。
しかし、困難なこの時期にも、書道の火を消してはならないとの思いを抱く人たちが根強くその道を守り、占領軍による禁止にも、山口亀吉の末っ子、みなせ筆製筆責任者 山口武美(大正3年=1914年〜昭和48年=1973年)は毛筆の製造・販路の確保を諦めず製造・供給が途切れることの無いように努力を重ねました。
屋号も、明治の時代から顧客に馴染んでいただいていた『みなせ筆』に改めました。
現在も使われている(私山口j一が使っている)毛筆作りの道具寸板(分板)=筆の毛の長さを決める

昭和27年(1952年)4月の「サンフラン シスコ講和条約」に伴い、『道』は禁止を解かれます。
これを契機に、製筆責任者だった山口武美は妻山口清子(大正5年〜平成19年=1916年〜2007年)と共に、父山口亀吉に製筆を学んだ職人達を自宅仕事場に再集合させ、それまでも製筆の火を絶やすことの無かった仕事場で今後考えられる需要増に応えるため『みなせ筆』の増産と販路確保に向けて動きました。
書道復興の熱気を強く念じ、その熱気の中心にいたのです。

私 山口j一(山口そう一)が書の世界に本格的に関わるのは1965年からで、勤務していた銀行を退行し家業であるみなせに入社、「毛筆の製造や営業」に携わるようになりました。
私にとっては物心つく前から「遊び場」イコール「筆の仕事場」であったわけで、まさに門前の小僧習わぬ・・・状況で製筆法など習ったことも指導を受けたこともなかったのですが、いざ手懸けてみるとごく自然に毛筆の製造が出来ました。
また、自宅兼筆の仕事場がある「有馬温泉」では当時沢山の書道グループによる「錬成会=研修会」が開催されていました。
占領軍による書道禁止令が解かれた直後と言ってもよい1954年頃から書道復活を念じる書家が各地で参集、書の研究会を開かれていました。書道復活の熱気が書の指導者達を動かし徐々に規模が拡大、多くの書道研究団体が既に誕生していました。
そして、宿泊設備の整った有馬温泉は格好の合宿所になりました。
最近でこそ高級温泉地として名をはせ、合宿に利用するのはためらわれるような料金が設定されていますが当時はとてもリーズナブルな価格設定だったのです。
「上田桑鳩先生」「辻本史邑先生」「石橋犀水先生」「木村知石先生」「広津雲仙先生」「安東聖空先生」「西谷卯木先生」「深山龍洞先生」「桑田笹舟先生」「梅舒適先生」「宮本竹逕先生」等々高名な書家が競うように門下生を集め、有馬で、又は有馬近郊で書の研修会を開催されていました。
その主宰者たる書家のほとんどが錬成会の合間に“忙中閑”をつくりみなせでくつろぐこれが錬成会の習慣のようになっていました。特に「上田桑鳩先生」「辻本史邑先生」「西谷卯木先生」は錬成会毎に、それも錬成会の間は連日のようにお見えになり、みなせ自宅の縁側などで横になられるなどくつろいだ時間を過ごされていました。
錬成会開催とは違いますが、当時の書壇第一人者「鈴木翠軒先生」も有馬温泉へ湯治に見え、みなせ先代と温泉宿で一杯交わす、斯界の第一人者へのお目通りが叶う機会を少しでも得たいと後々一世を風靡することになった書家の幾人もが機会を伺われ待機される、そんな光景もありました。

山口清子は有馬から、当時の有力な販路(=文具の問屋さん・文具屋さん・そして有力書家の勤務される学校・有名書家の教室など=)への宣伝にほぼ毎日出向いていました。有馬からの交通事情は今とは比較にならないぐらい悪く、顧客からのご注文・お問い合せも先ずは手紙、そして電話しか方法のない時代でした。

少しでも顧客の便利なようにと神戸中心部への出店を念願していましたが、縁有って昭和34年(1959年)夏ころ、神戸市生田区(現 中央区)元町5丁目(現在の店舗よりほんの少し東の元町商店街南面)への連絡所開設という形で実現しました。
この連絡所開設を契機に、それまでの毛筆の製造・卸業と墨の卸業から紙等々を含む文房四宝全般(書道用品全般)の卸へと業態を変化させていきます。
その後さほどの間を置かず100メートルほど東に一旦移動、更に二年ほど後やはり縁有って現在地に再移動、腰を落ち着けると共に『みなせ神戸連絡所』から『みなせ神戸営業所』として商品構成・販売手段などを充実・変更しました。この間には中国書道用品の輸入を手がけ、更には中国で書道用品の製造も始めます。

 その後は『(有)みなせ筆本舗−会社案内→沿革』をご参照下さい。

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