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老坑の歴史です
「新坑」と呼んだが為「新坑」と「旧坑」とでは採掘箇所が違うのではないかとの誤解を招いた「新入り口」の開設
日本
  端渓現地『肇慶』資料による年代、記録 左欄の説明・捕捉 永承〜永仁
1050年(宋、慶暦年)〜1290年(南宋末年) 第一次開坑
北宋を継いだ南宋が幕を閉じたのは1279年。1280年に元が始まっています。(南宋末年の表示は肇慶資料に依ります)
宣統、高要県志記録
1300〜1400年(元朝) 採掘停止
(元朝は1368年にその幕を閉じ明朝が始まっています。元朝表示は肇慶資料に依ります)
正安〜応永
宣統、高要県志記録
1403年〜1425年(明、永楽年) 再開坑 少量採掘して閉坑 応永
呉蘭修 端渓 硯史記録
1600年(明、万暦年)〜1834年(清、道光年) 再開坑、開坑閉坑を繰り返しながら大量に採石 慶長〜天保
呉蘭修 端渓 硯史記録
  1 1600年(明、万暦年)  内官太監の李奉旨開坑 慶長
呉蘭修 端渓 硯史記録
2 1628年〜1644年(明、崇禎年) 四川人の熊文D総督が指揮し開坑 寛永〜正保
高兆硯史考記録
3 1647年(清、順治年)〜1687年(清、康煕26年) この間6回採掘 正保〜貞享
高兆硯史考記録
4 1697年(清、康煕年) 高要県知事 景日採掘 元禄
高兆硯史考記録
5 1725年(清、雍正3年) 採掘 享保
梅山周 硯坑志記録
6 1752年(清、乾隆17年) 肇慶知府 呉縄年 採掘 宝暦
呉縄年 端渓 硯志記録
7 1780年(清、乾隆45年) 廉使の孫 春岩 監司肇を任じられ採掘 安永
袁樹 端渓 硯譜志記録
8 1797年(清、嘉慶2年) 肇慶知府高玉開坑を指揮 寛政
高要県志記録
9 1801年(清、嘉慶6年) 肇慶知府楊有源開坑を指揮 享和
呉蘭修 端渓 硯史記録
10 1804年(清、嘉慶9年) 恵州知府伊秉綬老坑へ入坑採石 文化
11 1828年(清、道光8年) 高要県丞陳銓人を雇い坑口で小片を採る 文政
12 1833年(清、道光13年) 再開坑 天保
13 1834年(清、道光14年) 閉坑 天保
1889年(清、光緒15年)〜1911年(清、宣統末年) 少量採石 明治
  1 1890年(清、光緒16年) 邱啓寿自ら採掘、朱文長方印硯を作硯、同時に第一次専任硯務官を務める  〃
2 1917年(民国7年)〜1918年(民国8年) 李耀漢再開坑。採掘量不明 大正
1918年(民国8年)以後1972年まで採掘記録なし  〃
 
1972年 周恩来総理老坑の事情を知り、肇慶市人民政府支持のもと採掘再開 昭和
1980年  人民政府 採掘現場の労働条件改善と共に増産を画して老坑坑底へ至る新入口を、旧入り口から約20bのところに開く 。  〃
「旧坑」と呼ばれる「旧入口」から入坑し辿り着いていた老坑坑底も、新坑と呼ばれる「新入り口」から入坑する老坑坑底も連続する同じ坑の掘り進んでいく連続した一連の採掘場所です。
新入り口を「新坑」と呼び旧入り口を「旧坑」と呼んだがため新坑と旧坑は別の坑との誤解を生みました。
この誤解を積極的に利用し「旧坑=旧入口」から採りだした原石と「新坑=新入り口」から採りだした原石とは全く異質のものだと説く猛者も現れました。 ⇒詳細へ
  1998年 1980年の新入り口完成に伴う採掘環境の大幅な改善後20年近くの採掘を経て、過剰採掘→過剰在庫の問題が発生。この事実の発表までには紆余曲折がありましたが公表せざるを得ない状況に追い込まれた老公管理人は過剰在庫問題を公表、過剰在庫一掃、適正在庫に戻るまで新たな採掘の禁止=老坑の閉鎖=を決定しました。 平成
1999年 採掘禁止の予兆から採掘禁止の実際、そして端渓遺跡・硯坑紫雲谷・・・端渓渓谷終焉への激動  〃
2007〜2011年 「端渓硯各坑」の銘硯を産出してきた端渓採掘の峪は「景区 硯坑紫雲谷」と観光地区とした指定をされ完全に観光地化されました。  〃

 以上が老坑の簡単な年代記です(≪「端渓」端渓のまことを伝えたい≫脱稿後の資料を加えました)。

 近代では、1918年の閉鎖から半世紀以上にわたる採掘停止期間が生じています。
 採掘できなかったのではなく、社会環境に大きな変化が生じ、採掘しなくなってしまったのです。
 清朝末期に入る頃から光緒朝終焉の時が見え隠れしだし、最後の皇帝となる宣統帝が即位するまでに、既に、中国沿海部は諸外国の干渉と侵略に蹂躙され始め、そこに近隣に位置する肇慶周辺では硯の採掘どころではなくなっていきました。

 命の問題だったのです。
 この間に、辛亥革命を経て旧時代は終わりを告げ1912年に民国が誕生、
その民国は1949年、中華人民共和国として生まれ変わるのはご承知のとおりです。
 国を上げて、全国民が生きていくための社会基盤の拡大・整備等々に取り組み、
国の再生・発展に努力を重ねました。
 それこそ世界人口の5分の1にも達しようという国民全員の生活基盤を確立する生きるための闘いの時だったのです。

 硯の採掘どころではなかったのです。

 国力も一定のレベルに達し、生活の安定が確信され出した1970年、
国の代表である周恩来総理が、老坑端渓の存在を聞くに及んで、採掘が再開される方向が定められたのです。

 1972年に再開された坑は、昔からの採掘坑跡(旧坑=旧入り口)を文字どおり再開したもので、作業環境は何世紀前と何ら変わるものではありませんでした。

 再開後、老坑の品質は昔通り飛び抜けたものであることが確認され、再び脚光を浴びるのです。

 この秀材の増産と作業環境の改善を目的に、肇慶市人民政府は旧坑坑口の真横僅か20メートル程のところに新入口(新坑)を計画しました。
 1980年に新入口(新坑)は完成、新入口(新坑)の完成・開抗を待って旧坑(旧入口)からの入坑は閉鎖されます(1972年の旧坑再開以後「新入口(新坑)」からの採掘は肇慶市人民政府が実質的な老坑管理者となります)。

 この新坑(新入口)開採から20年足らず採掘した後、1998年の原石盗難事件に端を発した警備強化名目で為された同年からの老坑閉鎖(事実は採掘環境の整備による過剰採掘=過剰在庫の解消が目的の閉鎖)が今(2003年1月⇒現在)に至るも継続され採掘禁止令は解除されていません。(2010年10月現在閉鎖は強化され継続されています)。
1月7日の現地からの電話では、今回閉鎖当初の予定通り、過剰在庫解消まで少なくとも後5年閉鎖は実施されるだろうとのことです。
 ※捕捉 :老坑 採掘坑を強制閉鎖し盗掘等による原石在庫増を防がねばならない、この事実は「老坑原石は健在である」事を明確に示すものであり、「老坑原石枯渇説」を否定するものです。

 新入り口を新坑、旧入り口を旧坑と呼んだがための混乱が「新坑=新入り口」と「旧坑=旧入り口」は別の場所であり採掘される石の質も違うもの・・・などの風評を呼びました。
この両入り口の地上での距離は20メートル程度、地下へもぐって辿り着く坑底は新・旧どちらから入っても同じ場所という事実を否定し、未だ「新入口(新坑)」と「旧坑(旧入口)」とは別個の採掘箇所であると、この混乱を利用し誘導する勢力が残り、そして事実を正しく把握できない方々が今も多く見られるのは残念なことです。
 
広東省地砿局提供 広東省肇慶市 端硯 老坑・坑仔巌・・・ 地質調査報告書

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