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ケイ県宣紙(県宣紙)=安徽省宣紙  紙 トップへ みなせトップへ
紅星牌宣紙の紙質変化(≒劣化)
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「画仙紙とは?」   「本画仙とは?」   「宣紙とは?/ケイ県宣紙とは?」
「ケイ県宣紙(県宣紙)の紙料(原料)/漉き方」  「紅星牌の漉き方 & 原料」
ケイ県宣紙のトップブランド「紅星牌」の紙質変化」
 ウイキペディア(Wikipedia)「画仙紙/宣紙」の記載について
以下の
  
色枠内が≪ウイキペディア「 画仙紙」≫の弊社更新再追記(ウィキペディアも合わせ更新しました)です。
烏溪: 県宣紙廠の漉き職人さん達が浙江省工芸品公司との打ち合わせに杭州を訪れ、打ち合わせの後に恒例の宴会。
その時たまたま浙江省に留まっていた私にお誘いの電話が浙江省工芸品公司から入り私もその宴席に出席しました。
当時は、県宣紙、その中でも紅星牌宣紙廠の製紙方法「紙の大きさに応じた複数の漉き職人が呼吸を合わせ一枚の紙を漉く」。
この「複数の紙漉き職人により一枚の紙を漉く」が門外不出の秘法とされていた頃でした。
が、宴が進みアルコールが進むとともに「門外不出の製紙方法」が普通に語られていました。
この時の漉き職人さんの一人が、漉いているところは「烏溪」と言いましたので「県宣城で漉く」と聞いているが・・・、と質問したところ、「私たちは“烏溪”」と言う。と説明してくれましたのでここでは「烏溪」名を使用しています。
画仙紙(がせんし)とは: 
画仙紙(がせんし)とは書画の用紙のうち大き目の紙を指し白系の色合いを主とするが紙料により、又同一紙料を用い製紙した画仙紙であってもその紙料を晒す程度により白色ではない画仙紙も数多い。只、安徽省烏溪(“烏城”とご紹介してきましたが通訳違いで“烏溪”が正解でした)一帯で製紙する(ケイ)県宣紙に限っては「白」が主である。

※ 画仙紙の基本規格に小画仙紙、中画仙紙、大画宣紙の三規格がある。雅仙紙・画箋・雅箋・雅宣とも書かれる。書画を書くことを主目的に作られてきたこれら大型の紙の発祥地「中国」ではこれらを総じて「書画紙」と呼び、書画紙のうち産地を限定したものを「宣紙」と呼んできた。  ※限定した産地で製紙される書画紙を「宣紙」と呼ぶが、この宣紙産地製ではない地域で漉く一部の書画紙にその土地の名を冠し≪※※宣紙≫と名付けることがある。
現在の安徽省県地域(旧名“宣城”地域)の周辺一帯は良質な宣紙の原料になる青檀の木≪楡(ニレ)科青檀属 青檀 別名「翼朴」 高木⇒16~20メートルに達する。≫が自生する。この青檀の木を主原料に藁(ワラ)を加えて作られた紙が現在に続く宣紙の元であり、旧地名「宣城」一帯で生産されたので「宣紙」と呼ばれた。 撥墨の佳さを求め、墨の持ち味、墨色の変化をよりよく表現できるように長年に渡る研究が続けられた結果開発された書画を書くのを主目的にした大型の紙。宣城地域で開発されたこの紙が「宣紙」と呼ばれるようになった。その「宣紙」と言う呼称が現在の日本の呼び方「画仙紙」という表現につながる。 中国で「“宣紙”を冠される紙」はその伝統的産地「宣城」、現地での地名は「烏溪」で伝統手法に則り生産される紙に限定されている。
が、高名な“宣紙”名(ブランド)を利用し他産地の紙に「宣紙」を冠する製品も古くからあり福建省の“福建宣紙”が一例で且つ有名である。中国安徽省涇県(宣州)で産出する紙なので宣紙と呼ばれた。
大きさによって大画仙、中画仙、小画仙に分けられ、製紙仕上げ段階の仕上げ方法により単箋、二層、三層、・・に分けられる。また、紙質によって煮硾箋(しゃついせん⇒「しゃすいせん」と呼ぶ例が多い。が、いずれにしても中国名を和読みしているだけなので読み手の自由とも言える。)、玉版箋(ぎょくばんせん)、羅紋箋(らもんせん)、豆腐箋(とうふせん)などがある。 中国製の本画仙に対し、日本製のものを和画仙ともいい、甲州画仙、越前画仙、土佐画仙、因州画仙などがある。
日本では中国で言う小画仙が全紙と呼ばれ書道用画仙紙の基準サイズとなっている。全紙(約70×138cm)を基準とし、全紙の縦半分切りは半切(はんせつ)という。

↓ 2020年8月2日。“宣紙の謂れ”にかかるご意見を、郵送にていただきました。  以下   
≪宣紙≫の謂われに関するご意見をいただきました。
この頁で掲載してきました「宣城で漉くから宣紙」に加え、今回いただきました「宣紙の謂れ」を併せ掲載いたします。
★今回(2020/08/02日)、「竹紙各種の見本と価格表」「見本紙の説明文」に加え、この見本紙のご説明文の間に記された「宣紙の謂れ」が送られてきました。
以下 [  ] 内です。
[中国の高級紙といえば「紅星牌」が有名ですが、弊社の紙は原材料から製紙の工程まで「紅星牌」と全く違います。
また、「紅星牌」の高級紙には、長くても1年間天日晒しの材料を使われていましたが、弊社は全て3年間天日晒しの古法材料を使っております。 本来、宣徳年間(1426-1435)に生産された紙のみが「宣紙」と呼ばれ、質が高く、貴重なものですが、中国安徽省宣城地域は宣紙の発祥地ではありません。] 
以上の「宣紙」にかかるご意見のあと引き続き、
「弊社の紙は、腐りにくく長期保存に最適とされ、何十年も前に生産された紙も現在倉庫に保存されています。また、紙の書き心地は数多くの書道家や水墨画師に認められております。」が記載されています。
安徽省宣紙などの製紙廠で紙を漉く「漉き職人さん達」や「製紙廠の責任的立場にある人」。
これらの製品=宣紙の契約を仲介する工芸品公司や製紙廠の責任的立場にある人達。時によりましては実際に漉いている漉き職さんたちから聞いてきた「宣紙の謂われ」とは異なります。
(ケイ)県宣紙の契約に現地へ出向いた時に必ず行われる歓迎宴。そして、契約後のお返し宴の時々に製紙廠や製紙職人さん達。輸出契約の公司から聞いてきた「(前段記載の)宣紙の謂われ」とは異なります。
契約時に、宣紙廠訪問の時に、宣紙にかかる皆様との宴会時に、・・・、聞いた話をまとめたのが前述「宣紙にかかるご案内」ですが、今回いただきました「宣紙の謂れ」のご意見と、この頁を含めご紹介してきた「宣紙の謂れ」とは異なります。どちらの「謂れ」が正しいのか。
再度、宣紙にかかる製紙関係者や契約公司の意見を聞いてみないことには判断の下しようがありません。

以上、「宣紙」との呼称にかかる、いただきましたご意見を併せ掲載させていただきましたことをご案内します。
 
ウイキペディア画仙紙ページの内≪煮硾箋≫に関しまして:
みなせは、広州交易会初期の1963年に既に参加し中国文房四宝の輸入を開始しました。
私の中国文房四宝との本格的な取り組みは1973年からで、当時はまだ友好商社のみに貿易の権利が与えられていました。
縁あって友好商社「関西-遠藤商事」 社長遠藤寛次氏のお世話になりましたが遠藤寛次氏亡き後数年で遠藤商事は解散。遠藤商事解散後はその貿易実務を担当していた元遠藤商事社員の輸出入専門家としての助言・手助けなどを受け直接契約・輸入をはじめました。
中国文房四宝の輸入に反を発す多くの中国文房四宝関係者との交流は既に半世紀を超えます。

その当初期の紅星牌宣紙輸出権は全て上海工芸にあり、上海工芸の厳しい品質管理に支えられた当時の紅星牌は今とは比較にならないほどの人気でいずれの紅星牌の紙種も貴重品扱い。
人気の棉料単宣や夾宣など紅星牌としてポピュラーな紙種と共に、稀に出品されるひとつに「煮才宣」がありました。
確かに「才」の繁体字「硾」なら日本読みは「煮硾箋 シャツイセン」です。
が、当時は簡体字「才」が用いられ「煮才宣」と表示され、当時の日本バイヤーの全てはこれを「しゃすいせん」と呼んでいました。
これらによりウィキペディア既掲載の「しゃついせん」を半世紀ほど前の読み「しゃすいせん」に編集しよう、かとも思いましたが前述の流れですので「しゃついせん」には筆を加えていません。

当時はバーター貿易が対中国貿易の本来であった時代であり、県宣紙=紅星牌(当時輸出される県宣紙はイコール紅星牌でした)全般の輸出権を一手に握っていた上海工芸が、今より数倍も人気の高かった紅星牌の契約に群がる日本の友好商社に、適時契約する量を割り当てていました。
無論、今の県宣紙の主生産者「紅星牌」を含む宣紙廠群は対外直接商談⇒輸出が許可されていない時代でした。
  
  画仙紙とは? 本画仙紙とは?宣紙とは?
山口琮 (そう)一
「センシ、宣紙」
  「ガセンシ」とは書画を書くための大型の紙を示す「日本における総称」で≪画仙紙・画箋紙・画宣紙・雅宣紙・雅仙紙≫などを主に様々な漢字が充てられ、そしていずれもが「がせんし」と呼ばれてきました。
≪がせんし≫との呼び名へ充てる「漢字」は、現在もまだ統一されてはいませんが「(日本では)画仙紙」が主流になり、次いで「画宣紙」が使用されています。
これにより画仙紙個々に命名される商品名としての画仙紙名も「※※宣」「※※箋」「※※仙」など「宣、箋、仙」を入れた名前の一部に採用した命名が多く見られます。そして、この「宣、箋、仙」などに何らかの「意味(方向)」を持たせ、使用区分けなどの意味を与えようと考慮したとしても、その設定の意味合いは設定者個々の意見を補強する・・・程度の目的に使用されるのが精々の程度で、画仙紙本来の何らかを区分けする、等の意味合いは持ちません。
 
★ 「宣」:   「宣」の文字を 書画の紙に使用する、特に「宣紙」と表すときに使用されます。
≪宣紙≫の本来意は、「県」宣城で漉く書画の紙のうち、一定の紙料を以て、一定の紙質範囲に漉いた「紙」を意味します。
下段に詳細をご案内します「県宣紙」を示す場合においてのみ使用されるのが本来です。
 
書画を書くことを主目的に大型の紙をつくってきた、画仙紙発祥地「中国」では、これらを「書画紙」そして産地と紙質を限定したものを「宣紙」と呼んできました。
※限定した産地で製紙される書画紙を「宣紙」と呼びますが、この本来の宣紙の産地ではない地域で漉く一部の書画紙にその土地の名を冠し≪※※宣紙≫と名付けることがあります。
安徽省烏溪で漉く「宣紙」が高品質な紙の代名詞となり、この宣紙、本来の≪宣紙≫を漉く地域ではない他地域で製紙される書画紙にも≪宣紙≫名を与える。そしてそれが堂々と流通する。いかにも中国ならではの※※宣紙です。

現在の安徽省県地域(旧名“宣城”地域)の周辺一帯は良質な宣紙の原料になる青檀の木≪楡(ニレ)科青檀属 青檀 別名「翼朴」 高木⇒16~20メートルに達する。≫が自然に育ちます。
宣紙紙料として青檀樹が育てられている丘陵斜面では樹高5メートル前後までに育ち管理された木がほとんどで、その斜面の下草なども掃除され一帯が綺麗に管理されています。
この青檀の木を主原料に藁(ワラ)を加えて作られた紙が現在に続く宣紙の元であり、旧の宣城一帯で生産されたので「宣紙」と呼ばれました。
撥墨の佳さ・墨の持ち味・墨色の変化・・・をよりよく表現できるように長年に渡る研究が続けられた結果開発された書画を書くことを主目的とした大型の紙。宣城地域で開発され生産されるこの紙が「宣紙」と呼ばれるようになり、現在に続いています。
そして「宣紙」との呼称が現在の日本の呼び方「画仙紙」という表現につながっています。

中国で「“宣紙”を冠される紙はその伝統の産地「宣城」、現在の「安徽省烏溪地域」で伝統手法に則り生産される紙に限定されています。
が、高名な“宣紙”名(ブランド)を利用し他産地の紙に「宣紙」を冠する製品、代表例として福建省“福建宣紙”が古くからあります。
 
を書くのに最も適した良質な紙とされる、そして確かに「撥墨」等は評価通りの 県宣紙”
≪適す紙。適さない紙≫ 
紙が適す、適さないは個々の書・画ともに書き手個々の好みの、同一人が書くとしても制作時による作風差の問題ですが、現在ではこの「宣紙」系統の紙質を好む人たちの間ではやはり「安徽省県宣紙」が、そして作家・指導者それぞれの作風、或いは指導方針により「楮紙系統の画仙紙」「麻紙」「因州・伊予・甲州などの和紙の雰囲気を伝える種々の画仙紙」などが、それぞれの好みの下で重要視されます。
 本画仙紙
前述のこと、日本では書画のための大型の紙を「ガセンシ」と呼ぶようになり、中国舶載を「ホンガセン=本画仙」と呼ぶようになりました。
漢字はいろいろな字が当てられました。
ガセンシ → 画仙紙、雅宣紙、画宣紙、雅仙紙、雅箋紙、画箋紙 など
ホンガセン → 本画箋、本画宣、本画仙、本雅仙 など
「本画仙」という呼び方は日本独自の呼び方で、通用するのは日本、或いは日本ではこれらの紙種を「本画仙」と呼ぶと知っている中国・韓国・台湾などの関係者だけです。
中国には、本来「本画仙」「画仙紙」と言う呼び方はなく、日本で言うこれらに相当する紙種のうち安徽省県で漉く紙、及び県宣紙に近い性質に漉くものを「宣紙」と呼び、この宣紙の産地、安徽省烏溪地域以外で漉くものの大部分を「書画紙」と呼んでいます。
しかし、「福建宣紙」に代表されるように県宣紙ではないものにも高名な紙種「宣紙」を利用し「※※宣紙」と呼ぶ事が稀にあります。
本画仙の意味合い
≪本画仙≫ 俗に「本画宣と呼ばれる画仙紙」の紙種の範囲は使用するグループにより異なることが多く、   
拡大広義 「本画仙 」 の名を幅広い紙種に適用するグループでは「中国で生産している白、又は白っぽい書画用紙のほとんど」を指し、
通常広義では 「安徽省烏溪で漉く「県宣紙全般」を、
狭義では 県宣紙の中の「棉料単宣」「棉料棉連」を、
極々狭義では 県宣紙トップブランド「紅星牌」の“棉料単宣”、または“棉料棉連”」を指す例が多数を占めます。
素紙
「素紙」 製造した紙に何も手を加えない紙を指し、「生紙」とも言います。
「加工紙」 漉きあげた紙=素紙(生紙)に何らかの手を加えたものを加工紙と言います。
一番多い加工方法は「滲み止め加工」であり、これにより「加工紙」とは「滲みを止めた紙」との短絡的解釈が比較的多く見られます。
  
   
紅星牌を代表とする()ケイ県宣紙
紅星牌宣紙 & ケイ県宣紙 の 原料、漉き方・・・・
 
 ??? 紅星牌製法秘密 ???、   ??? 原料が秘密 ???
紅星牌を代表とする多くの県宣紙の製法は部外秘とされ秘密のベールに閉ざされていた、とされます。

確かに部外者が紙漉現場に立ち入ることは禁止され、工場内部の見学も許可されませんし、覗き見などは無理な環境でした。
しかし、その秘密とされる製紙法も中国の手漉関係者の間では周知のこと、秘密でも何でもなく彼らと連絡を密にする私たち日本の関係者にとっても周知のことでした。
実際の製紙現場は見せてくれないがその製法や製造に関する原料など諸々のことは質問さえすればいくらでも教えてくれました。
調合した紙料が入っている「紙漉舟」から適量の紙料を「簀の子」にすくい上げ簀の子を前後左右にリズミカルに揺することで紙料を緊密に絡め紙を漉き上げる、この作業を一人でするのが通常の紙漉です。
≪紅星牌≫は、漉く紙の大きさに応じ「簀の子」を二人~四人の紙漉職人が息を合わせて揺する、二人の時は向かい合って、四人の時は簀の子の四角をそれぞれが持って揺する、これが宣紙の秘密とされている部分なのです。
息を合わせられるのは当然ベテランの紙漉職人、
彼らベテランが息を合わせ、熟練の技で、一人で漉く通常の漉き上げより何倍も何倍も「簀の子」を揺する、
これにより紙料はより緻密に絡まっていく・・・。
紙漉現場には入れてくれませんでしたが、漉き方の詳細は当方の質問が不十分な時でさえ積極的に教えてくれ、そこに「秘密」、という感じは全くありませんでした。

原料配合なども秘密である、と受け止めている向きがあったりするのかも知れませんが中国の関係者、紅星牌の直接の関連者でなくてもその周辺で紙に携わる多くの関連者の間では皆がよく知っていて、これも秘密という雰囲気は皆無でした。
「麦わら」と「青檀の木」を主材料に紙料を作ります。その割合と使用する簀の子により種々の宣紙が生まれます。

ここで述べている宣紙の原料・漉き方等々についての詳細を知る機会を最初に得たのは1970年代半ば過ぎだったと思いますが、今に至るも廃れることのない中国伝統の商習慣。
商談に先駆け、或いは商談の後に、多くはその両方ともに開かれる「大宴会」の場でした。
上海工芸は長い間上海の超一等地「黄浦江外灘」にあり、いつもながらの黄埔江を望む上海工芸の部屋で商談をまとめた後は定例の夜の宴会へ。
当時の上海工芸を出た真前が黄埔江。右手は預園へ連なる商業・歓楽地。そして飲食街。左側は上海一の商業地域「南京東路」、この南京東路東の入り口がこれまた超有名な和平賓館です。
1975年頃、その宴席に紅星牌宣紙を漉く紙漉職人達が何人も出席していました。
上海工芸に「生産予定高」「産地の要望」などを伝えに安徽省県烏城の地から船、バス、汽車を乗り継いで来た、とのこと。
どのようなルートを辿るのかを聞きましたら説明してくれ、安徽省の「烏城」「黄山地区」を経て「浙江省」、浙江省から汽車で「上海」に着く、とのことでした。
当時は上海工芸が紅星牌の全権利を握り、上海工芸の検品の厳しさがもたらす品質の安定度と高い完成度により紅星牌の評価は高く、購入希望者=日本の文房四宝関係の商社がほとんど=が如何に購入を希望しても中国サイド=上海工芸=が割り振りする品種と数量しか契約出来ませんでした。
当時はこのような時代背景でしたから、自然と当時の貴重品「紅星牌」の話となり、彼らから宣紙の漉き方などについての詳細を聞くことが出来ました。
この時の私の通訳は日本から同行した日本生まれ、日本在住のBILINGUAL華僑で、紙については何の知識もない者でした。
「宣紙の原料は何ですか」との私の問に対して宣紙職人は何ら躊躇することなく答えてくれました。
その答えの一部分をこの通訳は何度も何度も聞き返していました。
この通訳=ホボ紙の素人にとって「青檀の木」と「藁=わら」のうち「藁=わら」が意外だったらしいのです。
この綺麗な宣紙の重要な原料が「藁=わら」であるとの返事に納得せず何度も聞き直していました。
宣紙職人達はこの繰り返される質問にもじっくりと返事を続けていました。
その原料を、川沿いのシッカリした崖の上部一面に干し、天日と雨に当て続けること2年、自然に晒され白さを増していくていく、このように自然の力で叩解し、晒した紙料で前述の漉きを行う・・・・。
彼らの話題、そして説明は全てオープンで紙漉に秘密があるような雰囲気は皆無、質問には何でも答えてくれました。
棉料単宣、棉料棉連、夾宣、浄皮単宣、重単宣、羅紋箋、・・・、などの紙質差は「青檀の木の使用部分とその混合率+藁の混入率+“簀の子”の目」により決まる、こともスンナリと教えてくれました。
特に棉料棉連の「簀の子」は細かく編まれているので、同様紙料で漉いても他の紙種より柔らかい紙質に漉き上がる、とも言っていました。

昨今一部で喧伝されている「原料は秘密である」「漉き方が秘密である」について、秘密にしなくてはならないような雰囲気は皆無で実にオープンに説明してくれました(上海工芸は1990年過ぎに四平路の現在地に移転しました)。

以上簡単ですが、関係者のほとんどにとっては周知の「県宣紙、特に紅星牌」の「原料」「製紙方法」について簡単に述べました。
1990年代後期頃からより顕著になった紅星牌宣紙の紙質変化⇒紙質硬化
伝承の紅星牌品質をまもり世に出すことを最善の仕事と捉え実行してきた歴代の紅星牌宣紙廠経営陣。紅星牌伝統の工程を、品質をキッチリ守り、紅星牌の高評価の基である紙質を継承してきた旧経営陣は、1990年代後半におこった勢力争いに敗れ、ホボ20世紀最末頃期に新経営陣に迎合したごく一部を除く旧経営陣全員が追放されました。そして新経営陣に変わるや否や、と言えるぐらいの短期間に「経営の効率化」を謳い「伝統の品質」よりも≪高利益≫を目指す経営に方向転換。製紙工程の一部を、「紙質」にとても重要な製紙工程の一部を変更させました。
数ある製紙工程の只ひとつの工程を効率化させた、に過ぎないのですが効率化と謳う工程変更により製紙時間を短縮させても(=新経営陣の謂う効率化させても)見た目にはより綺麗に見える紙ができ、紙質にも変化はないように見えまる紙ができます。
しかし、これは紙本質からみたとき紙質の根源にかかる重大な変化、紙質硬化≒撥墨の巾の著しい減少という決定的な変化が生じているのです。
この効率化したという工程で「製紙」された紅星牌が今流通の紅星牌であり、旧来の同品質に比較し≪硬い紙質≫の製品となっていることは多くの使用者に実感されています。
紙質が硬い。これは撥墨の著しい低下と同義であり≪宣紙という紙種の人気の終焉≫に直結してしまうかも知れません。
旧来の製法を、工程を熟知しそれを守り宣紙を漉く職人の集団。
実に長い間に蓄積され伝承されてきた「県宣紙」。伝統を裏付ける「良質な撥墨へ誘うしなやかな紙質」。これが県宣紙のトップブランド「紅星牌」に求められるものであり、そしてズ~ッとこの伝統は守られていました。
それが20世紀の末頃から21世の初頭に渡るこの僅かな時間で消え去ろうとしています。
高く売れると読めばコストとは無縁の「高値」をオファーし、更に立場が強いと読めば「不要な品種・規格も含めたセット契約」を強要する。そして紙質は前述の通り、皆様ご承知のとおり現経営陣が謳う「製紙工程効率化」により著しい「劣化」に陥っています。
歴代の経営陣は「宣紙とはどうありどう守るべきものか」との永年にわたる変わらぬ思いを込め製紙し流通させてきました。それがほんの10年強で、・・・、現状に陥っています。
現経営陣に「本来の県宣紙の製造」を何度も望み伝えましたが「利益の追求」を最優先する経営姿勢に変化は見えません。
 ??? 紅星牌紙質硬化の原因 ???
紅星牌: 2014年半ばから見られた契約単価=日本国内価格の急激な乱高下は少しおさまりました。
この急激な価格高騰が何故生じたか?  
それは、下段の「紅星牌宣紙紙質の硬化」と同じ原因によります。1990年代後半の、県第一宣紙廠(=少し後に紅星牌宣紙廠と改称)の経営権争いに勝った新経営陣は「利益の増大」を第一に掲げ、下段のご案内通り伝統の「製紙工程」を変えさせ紙質も劣化しました。
新経営陣の経営方針に沿い、紅星牌宣紙は全ての紙種にわたり価格を上げ続けてきましたが、上昇が続き、一時期には高騰と言える上昇幅を見せ、高額になり過ぎ販売量が激減し続けた結果の2014年代半ばに一度下げに転じましたが、宣紙廠の価格政策は再度「契約単価の上昇」に戻り、 外為円安相場の継続と相俟って国内の輸入コスト≒販売価格は上昇に方向を変え、その後2017年に入るころから「横ばい」、一部紙種は「ごく僅かな低下」に転じました。
常備品に品切が出ないように努めていますが紅星牌宣紙廠の経営戦略による生産・輸出・契約価格の変動が続き、更には紅星牌宣紙廠が独自にセットする「品種・規格組み合わせ」のみの契約を強要し日本の輸入者が希望する品種・規格だけの契約は受けない、という姿勢を強めています。
これらにより常に十分な在庫を確保することが困難な現況で品切が発生することもあります。
以下掲載の紅星牌価格は現在庫品のみの適用とさせていただき、品切品種の価格は次回入荷時のコストに基づき決定されます。 
 


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